■.君と花火

「ね!花火、始まったみたい!」

 名前が作った手料理を二人で食べ一緒に後片付けをしていると、窓の外からドンッという鈍い音が聞こえた。その音の正体にいち早く気づいた彼女は、食器を素早くカウンターに置くと俺の腕を引きベランダへと連れていく。そんな、少女のような笑みを浮かべる彼女を見てしまえば、もう何も言えない。

 君が満足するまで、花火を見よう。そう観念するようにベランダに出ると、その音は想像よりも大きく、体の中まで響いていった。

「何回見ても、やっぱりいいー!」

 柵に上半身を預け、身を乗り出すように外を見る名前は少々危なっかしい。あまりにも花火に夢中になっているものだから、少し意地悪をしてやりたくもなる。俺は数秒だけ花火に目を向けた後、ゆっくりと名前のウエストに腕を回し柵から少し離れさせた。後ろから包み込むように抱き締めると、名前は少し恥ずかし気に俯く。

 そうだ、俺の相手もしてくれ。そう伝えるように首筋にキスを落とせば、彼女は身体を捩る。

「んっ……」

 その声で、名前がこれを受け入れてくれているのが分かる。もう一度力を込めて抱きしめれば、花火への熱は少し薄らいだようで、静かに体を預けてきた。花火の低い音が、空を突き抜けていく。

「ねえ、秀一さん」
「ん?」

 名前の言葉を一言一句逃さないように少し屈んでやると、彼女の目が煌めいて見えた。

「幸せ……!」

 自分の腕の中で、確かに幸せそうな笑顔を見せそう囁くものだから、なんとも形容し難い感情に包まれる。まるで、時が止まったかのようだ。

 この小さく、儚い存在が、愛おしくて仕方がない。この時間が永遠であれと、消えてしまわないようにと強く、強く抱きしめてやる。

「っ……愛している」

 その思いをぶつけるかの如く官能的に首筋に顔を寄せれば、名前は声を上げて笑った。

「ふふっ!まだ始まったばかり!」
「……もう十分見たじゃないか」

 打ちあがる何発もの花火は、どれも一緒に見えた。焦らされているようで、もういいじゃないかと少し不服そうに言えば、名前は膨れた顔でまだまだと不満を漏らす。その怒ったような、拗ねたような声と表情は余計にこちらの感情を煽るというのに、名前は全く気づきもしない。

 少女のように無垢に笑い、可憐な華のように揺れてはこの時間を心の底から楽しもうとしている。そう、彼女にとっては花火を見ることも大事な時間だ。それを邪魔するつもりはない。

「それは、失礼致しました」

 おどけるように両手を上げると、名前は笑みを見せた。全く、どうしたってその笑みには敵わない。

 いつまでも眺めていたいその薄い頬を、傷つけないように指の甲で撫でては、瞳で愛でた。そうして彼女を片腕で抱くように軽いハグをして、華奢な身体を離してやる。

「え、見ないの?」

 部屋に戻ろうとしていた俺を、名前は悲し気な声で引き留めた。背中から感じる、切ない視線に思わず口元が緩んでしまう。一緒に見たいのだと、それを望む彼女の願いはとても可愛らしい。

「いや?ドリンクをお持ちしますよ、姫」

 そっと、グラスを持ち上げるジェスチャーをしながら振り向くと、名前は弾けるような笑みを見せた。

 こうしてコロコロと変わる彼女の表情を楽しんでいるようで、実は自分が踊らされているのだろう。冷蔵庫から名前の好きな甘い酒を出し冷えたグラスに注ぎながら、そんなことを思った。年下の彼女に、どこまで翻弄されているのか。全く呆れてしまうが、名前に出会った時にはもう、白旗を上げていたんだ。君には敵わない。俺のすべてを差し出しても、足りないものを彼女は持っていた。

 懐かしい。そんな当時の気持ちを思い出しながら、自分用にバーボンのロックを用意して、二つのグラスを手にする。ベランダにいる名前の背中からは、少女のように花火を眺めている彼女の表情が見て取れた。

 まったく、困った姫君だ。しかし、こんな安らぎが、この世にあるとは思いもしなかった。

 手にしたグラスを持ちながら、俺は静かに息を漏らす。これを持って行けば、名前はまた、わっと驚くような笑顔で喜んでくれるのだろう。そうして彼女の視線は、あの華やかに夜空を彩る花火へと向けられるはずだ。

 ならば大人な時間は、もう少し夜が更けてから。今は愛おしい彼女の横顔を見ながら、ゆっくりと、この宵の夏を楽しんでみよう。こんな夜も、悪くない。